令和4年9月24日(土)午前10時
秩父平氏講演会
 秩父市と荒川区の民間交流 講談・講演会
-秩父平氏一族と江戸氏を語る講談講演会-
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 講演会で確認したこと

 秩父重継が江戸に進出して江戸城を開発したのは永久2年(1114年) (志村有弘 源平時代人物関係写真集、埼玉新聞1968年12月3日号既報他)

 「江戸氏の館」や「城館」は「城」の誤り。通常城の中に館を造る。秩父重継が生まれたのは秩父郡吉田郷の「鶴ヶ窪城」。当時秩父平氏一族は武士で、荒川、入間川、多摩川他全国の水利権と舟運を確保するため川の近くに「城」を構えた。

 そのため、江戸氏は平川の近くでしかも海(海運)も可能な荏原郡桜田郷、今の江戸城に城を構えた。

 江戸重継と河越能隆は、1165年、京都法住寺殿から今日枝神社を勧請し、江戸城と川越城に神社を建造した。(川越市上戸の石碑では後白河上皇と同時に1160年としている)

 1186年、江戸重継が死去すると、嫡子の江戸重長が城内に「慶元寺」を建造し父を祀った。慶元寺は江戸氏と共に1457年に大田道灌から追放されているが、一時成城に移って、現在は喜多見にある。

 江戸氏が江戸城から追放されたときの城主は明確ではないが、少なくとも10数代江戸城は城主(おおとの)が変わっている。江戸氏は徳川家康の時代まで続き、喜多見氏として綱吉の代まで徳川家の家臣であった。当時は2万石まで禄高を増やし、現在の23区内に「喜多見藩」という別格の藩が存在した。
 従って、大田道灌が江戸城を初めて建造したというのは後世のねつ造と考えられる。

 江戸氏の18代は江戸朝忠。慶長17年(1612年)逝去と書かれた墓碑には、「当家依江戸在城19代改姓喜多見」とある。

【講演会の名称】
秩父平氏一族と江戸氏を語る講談・講演会
 江戸重長から河野通有まで

【期日・時間】
 令和4年9月24日(土)
 午前10時(9時半開場)~12時(予定)

【入場料】
 500円(往復ハガキで申込み 当日会場で支払い)

【講談師神田山吹 「頼朝と重長隅田川で対決」

【講演内藤定芳 「秩父平氏と江戸重長 関道閑入道から河野氏まで」

【聞き所 見所】

・秩父平氏が目指した西関東の政略とは。

・江戸氏が過小評価されたのはなぜか。頼朝の隅田川渡河。平広常が9月19日に頼朝陣に参加して、隅田川を渡るのは10月2日。この2週間は何だったのか。最大の疑問点。

・江戸氏の祖とされる秩父重継が秩父郡吉田郷を出立したのは1114年。1457年に大田道灌から江戸城を追放されるまで、343年間江戸氏と一族はどのように発展したか。世田谷喜多見の慶元寺と永田町の山王日枝神社などが謎を解いてくれます。

・当時上野辺りから田端までを治めていた関道閑とは。

・四国松山の河野水軍との繋がりは。
   ←左のチラシはこちら




JR西日暮里からの都バス時刻表
(変更の場合もあります。再確認下さい。)
            令和4年9月5日確認

 土曜日          
 午前7時  10 24 37  52   
 8時  5 19  33 47   
 9時  1 14  27  41   59
 都バス乗り場はJR西日暮里駅の最北部、池袋寄りにあります。駅の最北部を東西に走るパス通りがあって、駅から1分程度です。
約10分で荒川区役所前。
ここで下ります。
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